くなんとかの備忘録

7歳とnヶ月から始める小学生並みの文字書き訓練

デカ阪ふりかえり Pt.1

埼玉に戻ってきてすぐ書くつもりが気づいたら2ヶ月経ってました。
え、もう2ヶ月?早くない?2ヶ月あったらこう何か…そう、何かが何かになる…?

特に思いつかなかったのでさっさと本題に入りたいと思います。

が、その前に。

大阪にいたあれこれを忘れないうちに綴ろうとしてるのですが、
完全に独りよがりで周りの他人の事を考えてない人間性の欠如した主観視点な上に
大阪での私の事を知ってる人からしたら相当不快な文章になる可能性があるので、
そういうのが苦手な人はすぐさま戻るボタンかAlt+F4を押す、それでも読みたいという方は
上記に加えてTwitterやLINEのブロックボタンをすぐ押せる体制で読むことをおすすめいたします。



...



さっそくまとめみたいになってしまうのですが、
私にとっての大阪での生活は良くも悪くもとても充実したものだったと思っています。

前の(たった一つきりの)記事とも被るのですが、

・やってみたかった事にチャレンジできた 
・やりたいことでお金を頂けた
・すごい人達に囲まれていた
・自分の好きにやれていた
・自分の絵を肯定的に見れるようになった
・自分の向き不向きが大体見えた etc...

といい意味で充実した時間を過ごせた反面、

・序盤に身体を壊す、終盤に両方壊しかける
・不向きなのか馬鹿なのか、ミスを連発
・自分の程度の低さを思い知らされる
・上記の事から周りに迷惑をかけまくる
・わりと本当に空き缶拾って生活する羽目になりそうになる

と悪い意味でも充実(?)した期間でもありました。
(もっとも、悪い方と言っても自分に非があるので人として直すべき欠点が見つかったという意味では
充実してたことに間違いはないかもしれません)

とまあざっくりこんな感じの大阪生活だったわけですけど。

あれ、吐き出したかったこと箇条書きにしたら意外とスッキリしちゃったよ?
もうここで終わりでいい?うるせぇちゃんと最後まで書くんだよぉ!はい。



というわけでまずはお仕事に絡む所から書いていこうかなあと。


最初はとある方に声を掛けていただきおまけにそれがやってみたかったゲームづくりの仕事、
ただでさえその時現行でやっていた仕事が嫌になりきってた自分は二つ返事で声掛けに応じていました。

そこからドタバタしながら大阪に行く準備(親には夜逃げと喩えられて泣いちゃった)。

張り切って出勤かと思いきやいきなり風邪で1週間寝込み、
そこから全く触ったことが無ければ知識すら無いツールを触ったり文字通りゼロどころかマイナスの状態でのスタートを切るも
知らないことを何かを作っている、形作って行けているのが密かに面白くていい感じに日々を過ごしていました。

もちろん不慣れなことばかりでつっかえてばかり、スムーズに行くことのほうが少なかったのですが
そういうときに考えるのも嫌いではなく、なにより物凄い丁寧にサポートしてもらえたので
少しずつですが割り振られた仕事が出来るようになっていきました。

おまけに作業の内容柄神絵師のイラストいっぱい見れたしね!楽しくないわけがないよね!
何一つ自分の絵に活かせてる気がしないけどそれはとりあえず置いといて。

そんなこんなで一人スキル0の状態で携わり始めた制作もあれやこれやと言う間に進んで完成、
リリースがされたときは初めて同人誌を作ったときと似たような、でも違うような
なんとも言えない感情(荒れ果てた更地だった所に何かが芽生えた感じ)に包まれました。

そもそも人と何かを作り上げるっていうことが初めてだったしね。達成感があるしうれしいよね。


…しかしいつまでも一人浮かれポンチになっているわけにもいかず次の作品の制作が始まります。



っていうところで気づいたら3時になっていたので流石に続きは後日に回すとして、
お仕事の話だけなのもアレなので関係ないことも垂れ流して1時には寝ます。


・大阪では青と黄色は渡れ、赤は気をつけて渡れだなんて冗談めいて言ってたけど
 住んでたところで見かける人は全部渡れだと思ってる人がわりかしいてひっくり返った

・自転車多すぎてびっくりする
 (昔、堺かどこかで銃を作っていた技術を使ってどうのこうので自転車たくさんわーいみたいなお話を聞いた)

・スーパーのお惣菜やお弁当の味は関東より大体美味しかった気がする、さすが食の台所

・でもうなぎは国産でもゴムみたいでキレそうだったキレた本当に許さない

・本当にどうやったら国産のうなぎがゴムと化すのかが理解できないもう何も信じられない

・本場のおばちゃんはありがとうとおおきにを重ねて使う

・白銀亭行きたい…

・居酒屋CoCo…



とか書いてたら今度4時なんですけど寝。